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子供たちを図書館に閉じ込めよう

ことしの歌会始(1月14日)のお題は「本」だった。たまたま「本は読むべし」のタイトルでコラムを書き出していたわたくしは、本をテーマにどのような歌が詠まれるのやらと気になってニュースを追った。

皇太子さまのお歌
「山あいの 紅葉深まる 学び舎に 本読み聞かす 声はさやけし」
山形県の小学校を訪問したときの様子を詠われのだという。

天皇陛下のお歌
「夕やみの せまる田に入り 稔りたる 稲の根本に 鎌をあてがふ」

天皇陛下は、紙の本に直接言及していないけれども、「根本」という強い言葉を使われた。そこに陛下の深いお気持ちがうかがわれる。世が世ならば、ご意向をめぐって大変な論議が行われるところだろう。

歌開始の題が決められるのは1年前だから、昨日今日の話ではないが、わたくしはこのような題を宮内庁が取り上げたところに、日本の紙の本が抱える問題の大きさ、危機の根深さがあると思う。なにしろ雑誌を含めた活字の書籍の低落傾向は、デジタル機器の普及が始まった1997年から20年近くも続いて、だれも止められない。

図書館の利用者までが減ってきている。ことしの正月には各地の図書館が福袋を用意して利用を呼びかける様子が伝えられた。実際、近所の図書館を訪ねてみると、子どもたちの姿はほとんどなく、あふれていた高齢の方々も一昔ほどではなくなったようにみえる。クールに突き放していえば、人にとって大事な情報というものがかつてのように本の活字からだけではなく、デジタル文字からも入手できるルートが開かれたことに伴う現象といえる。

11年前に電子自費出版社eブックランドを立ち上げたときは、日本が遅れを取ったインターネットの普及を第1の目的に考えていたこともあって、「電子書籍が紙の本を越える日」と刺激的な副題をつけた「ブック革命」(日経BP刊)を出版したが、その中でも紙の本が消えるということではないことを繰り返し書いた。グーテンベルクの輪転機の発明以来、600年も重用されてきた紙の本はそのハンディさ、自在性からこれからも読まれ、利用され続けるだろう。

だが、わずか10年でこの激変である。日本語の断絶さえ心配になる。江戸時代の文字が読めるのはもう専門の学者くらいなものだ。下手をすると、明治、大正、昭和の戦前の文章さえもいまの若い人にはほとんど読めないかもしれない。そこで「本は読むべし その1」では、NIE(教育に新聞を)運動を盛んにするよう奨励した。

「本は読むべし その2」では、子供たちを図書館に閉じ込めることを提案したい。わたくしの個人的な体験から、直感的に有効だと考えている。

子供のころのわたくしはかなりおとなしいほうだったと思うのだが、それでも母からは鉄の火箸で床を叩いて恐ろしく怒られることがあった。しつけに厳しかったのだろうか。そしてお仕置きということで蔵の中に閉じ込められた。

小学校の高学年のころのことだが、お蔵の2階に上がると、そこには様々な本が積み上げられていた。父は農学校の卒業だが、古典の古文の本がごろごろしていたのをみれば、大正から昭和にかけて青年期を過ごした父はひそかに文学者にあこがれていたのかもしれない。そういう分厚い難しい本は手に負えないが、なかには漢字にかなが振ってあって小学生にも読めそうな本があった。円本である。

円本というのは、B5版ほどのかなり大きな本で、1冊1円だったことから「円本」と呼ばれた。改造社が大正15年12月(1926年)から売り出してブームを巻き起こしたオレンジがかった赤い布装の「現代日本文学全集」は月に1冊のペースで63巻まで発行された。、明治から大正、昭和初期にかけての作家たちの主な作品はほとんど網羅されていたと思う。

これを手当たり次第に読み始めたわたくしは、時間も忘れて読みふけるようになった。宿題などほとんど覚えていないが、志賀直哉から島崎藤村、泉鏡花、小川未明、横光利一(明治31年 - 昭和22年)らまで、ひらかなを頼りに読み進んだ。翻訳もののロシアの大河小説もあって、よくは分からないながらページをめくってむさぼり読んだ。

のちにジャーナリストとして、シンガポール近郊のゴム園をタクシーで走りながら「こんな場面が横光利一の文章にあったな」などと回想したことを覚えている。知らず知らずのうちに、わたくしの右脳には日本の大正ロマン期の知識が蓄積され、思考回路が張り巡らされていったらしい。

らしい―というのは、一度、読んだからといってそれがしっかりと記憶に残るというものではないからである。ただ、なにかの拍子に昔の回路が蘇ることがある。文章を書くのに苦吟するうちに自分でも記憶にないような言葉が脳裏に湧いてきて、それが書きたいと思っている内容にぴったりはまるということが幾度もあった。円本で繰り返し読んだ古めかしい言い回しや言葉が無意識のうちに思い出されるらしいのだ。

こうして次第にわたくしならではの文体、スタイルが形作られたように思う。ちょっと古風な言い回しとリズム感のある文章を書くわたくしは、職場でいつの間にか「明治の書生」という異名をいただくようになったが、それは所作や風貌だけでなくこうした文章のせいもあったのだろ。

このように本を読むということの効用は、すぐ現れるというものではない。一旦は脳の奥底に活断層のようにしまいこまれる。そしてそれがいつの間にか自分自身の言葉や考え方に影響を及ぼすようになるらしいのだ。瞬間湯沸かし器ではない、思慮深さのような資質はこのような読書という何気ないトレーニングから生まれるように思われてならない。

だから、学校でも市町村でも、頭がまだ柔軟なうちに子供たちを図書館にしょっちゅう送り込んで、好きな本をできるだけ読ませるようにしようではないかと提案したいのである。

ただし、こうした日本語のピンチが政治的に利用されることのないように願いたい。せっかく民権の国になった日本を戦前の体制に戻そうとする復古主義や過激なナショナリズムとは峻別して、日本語を話す国日本でありたいと思うのである。


作成:Sanshiro 2015.01.17 更新:2015.01.19

電車に座って対面の座席をみたら、9人中の9人までが、携帯電話とにらめっこしてピコピコしていた。1列に座った全員が、携帯画面をみたり文字を打ったりして頭を下げたまま、周囲に注意を向けようとしない。

そんな光景が、電車が1駅も2駅も走る間中、続いて、さすがにギョッとして車両全体を見回した。3分の2ほどが携帯を手にしている。 eブックランドのある京王電鉄井の頭線の久我山駅近くの車内でのことだ。

携帯をみているからといって、電子書籍を読んでいるばかりでないことは承知している。会社からのメール、ご近所や友人とのやり取り、あとはもっぱらゲームだろう。それでも1人1人がインターネットにつながったコンピュータを身につけるウエアラブル・コンピュータの時代が、ついに日本に到来したことは間違いがない。

11年前、電子自費出版社eブックランドを立ち上げたときは「本は紙の本の活字で読むものだ」と白眼視された。まだまだ電子出版社の肩身は狭いが、いまや有名な大手出版社や大新聞までが電子書籍の制作どころか、自費出版まで手がけるようになった。

こうなると逆に心配になってくる。日本語と日本人の将来のことである。

eブックランドを始めたころ、大学生が「電子書籍ってよさそう。少しは本を読むようになるかもしれないから。このところ全然、本を読んでいないの」と無邪気に言ったのには愕然とした。こんなことは序の口で、新聞社の友人からは「新卒を採用したら、10人のうち8人までが新聞を取っていなかった」と聞いた。

日本の競争力を高めるためにはインターネットの普及は必須だし、多少の弊害もやむをえないと考えている。そのために「ブック革命―電子書籍が紙の本を越える日」(日経BP刊)を書いて電子出版ビジネスを起こした。

しかしそれにも程度というものがある。手をこまねいていたら急速に日本語の断絶が起きるだろう。タイトルにした「本は読むべし」などという古風な言い回しからして、もはや死語かもしれない。

いくらなんでも日本人が明治以降の日本語の本が読めないどころか、戦後の日本語さえも分からなくなったら寂しい。日本文化の喪失にもなる。今年2015年には、日本語の電子化に対する揺り戻しが起きるのではないだろうか。

日本語を守れの合唱は、これまでも繰り返されてきたテーマだ。明治5年には薩摩藩士で文部大臣などを歴任した森有礼(1847-89)が日本語のローマ字化を考えて反発を食ったことがある。森は結局、国粋主義者に暗殺されて43歳で亡くなった。

わたくしは、もちろんICT(情報通信技術)の普及と教育はなによりも大事だが、一方で日本人の素養として日本語教育は不可欠だと考えている。だからデジタル化は進めば進むほど、日本語教育には力を入れなければならないと思う。

新聞が売れなくなった新聞社はいまNIE(Newspaper in Education 教育に新聞を)に熱を入れている。政府もこれに呼応して税金を投入してまでして新聞を学校に配布している。その意義は認めざるを得ない。ただし税金を使うのだから特定の政府寄りの新聞だけを配るのは止めていただきたい。

作成:Sanshiro 2015.01.06

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