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カズオ・イシグロの思い出

 銀座界隈では号外が刷られて、飛ぶような売れ行きだったらしい。カズオ・イシグロがノーベル文学賞を受賞した10月5日の晩のことだ。

 わたくしもニュースを聞いて昔のスクープの快感が蘇った。カズオ・イシグロがブッカー賞を受賞したことを日本で最初に報じたのは、なんとわたくしなのだ。1989年だから28年も前になる。
 ブッカー賞の選考会が開かれるという案内があり、ノミネートされた作家の中にカズオ・イシグロという名前があるのをみつけてふと興味をかき立てられた。会場に足を運んでみれば、日本人の取材記者はわたくしだけである。

 その日、ノミネートされていた作家にはカズオ・イシグロのほか、マーガレット・アトウッド、ジョン・バンヴィル、シビル・ベッドフォード、ジェイムズ・ケルマン、ローズ・トレメインの5人がいた。
 これらの作家たちの誰が、英語圏最高かつ最も権威のあるブッカー賞を受賞するかはまだ分からない。しかしわたくしが日本からの特派員だと知った事務局の女性の愛想がいい。発表になる前から、「カメラマンが集まっている作家に注目しましょうね」などと付きっきりでアドバイスしてくれる。作家たちの座る中央の席に目をやれば、どうやら日本人とおぼしきカズオ・イシグロがフォーカスされているようだ。

 もしかすると・・・。振る舞いのワインもそこそこに、緊張しながら見守るうちにいよいよ受賞者の発表である。その瞬間、わたくしはカメラを握りしめてカズオ・イシグロの席に駆け寄っていったことを想い出す。カズオさんは新妻ローナさんとともに祝福を受けていた。

 それから間もなく、受賞のあわただしさから解放されたころ、わたくしはイシグロ夫妻を自宅に招いてブッカー賞受賞をお祝いするパーティーを開いた。もう少し取材して長尺ものの記事になりはしないかという仕事をからめての招待のつもりだったが、一言二言、話をするうちに、まったくかみ合わないことが分かった。
 英語の問題もある。わたくしのブロークン・インングリッシュは、イギリス人が繊細で完璧な英語だと感動するカズオ・イシグロの文体を話題にするにはほど遠い。それだけではない。イシグロさんはさりげなく、しかし鋭くわたくしのグローバルな歴史認識を探ってくる。イシグロさんにとってもわたくしは興味深い取材対象であったらしいが、がっかりさせてしまった。日々の出来事を書きなぐるだけの薄っぺらな記者とは出来が違いすぎる。イシグロさんはそんなことをおくびにも出さない控えめな方だけに、かえって痛感したのだった。

 ローナさんに料理が美味しいと言っていただけたことだけが救いだったように覚えている。もう遠い昔の思い出になる。
作成:Sanshiro 2017.10.06
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